『正徹物語』107篇

 道風・佐理・行成をば皮肉骨にあてたる、道風は骨髄にとほりたる体を書き、佐理は肉の体を書き、行成は皮の分を書きけるとかや。三人大略同時の者なり。道風が末つかたに佐理出で来、佐理の末つかたに行成は出で来しなり。伏見院は、道風・佐理が筆体を写し給へり。仮名は一向にみずからあそばし出だされたり。道風・行成などの仮名が、世間にいまも少々侍るは、ちくちくとしてねずみの足形のやうにありしなり。ひきつづけてうつくしく、ふくふくとしたる仮名は、伏見院のあそばし出だされたるなり。これより後は天下一向に御所むきをまなびけるなり。後伏見院・萩原法皇など、皆伏見の院のむきをあそばしけるなり。六条内府有房卿の筆跡、ことに伏見院の宸筆にちともたがひ侍らず。世間におほく見しらずして、伏見院とて秘蔵するなり。仮名が殊更よく似たるなり。久我の先祖にて侍る云々。禅林寺の中納言と初めはいひしなり。清水谷などもこの下より出でたる家なり。
 道風・佐理も、漢朝の風を伝へて書きたり。伏見院の宸筆、和漢に通じたるものなり。子昴・即之などが書きたる物に引き合はせて見侍るに、筆づかひさらにかはらぬ物なり。仮令、床押板に和尚の三鋪一対、古銅の三具足置きて、みがきつけの屏風など立てたる座敷の体の様に、和漢の兼たるは、伏見院の宸筆なり。青蓮院御筆は、みす・すだれかけわたして、みがきつけの屏風障子に、何も日本の物ばかり置きたる体なり。後光厳院の御消息は、誠にならべてみれば、からびてけだかき所及ぶべき物にもあらず。仮令、後光厳院はうつくしき女房の几帳のかげに置きたる様なり。伏見院はよき男の装束を着て、南殿へすすみ出でたるやうなり。几帳のかげの女房は、内にてみるに、うつくしきやさしき物なり。されども晴に出でん事は、猶男の束帯たるは、けだかくじんじゃうなる様に、伏見院はあるなり。