『貞治六年中殿御会記』(雲井の花) 二条良基作

(前略)抑、貞治六年の春、九城のうち花かうばしく、八島の外風治れる時にあひて宸宴を催さるゝことあり、題并序のこと建保の住躅をたづねて、関白是をうけたまわる、征夷大将軍此道すきの心ざしも浅からずして、勅撰なども申行はれしうへ、建武宸宴に贈左府の芳躅なきにあらざるよし、再三勅命によりて俄に参せらる、誠に当時の壮観、後代の美談たるをや、奉行蔵人左少弁仲光兼日勅喚の人々に題をくばる、花多春友といへる題なり、此たび関白建保の例に任せて当座の出題あるべからざるよし申うけらるゝ故也、当日に御殿のご装束をよそふ、母屋庇の御簾をまきて、階の西の間より三ヶ間に折て、各々菅の円座しきて公卿の座とす、関白の座二枚を重ぬ、長治元徳には二行たりといえども、一行本儀たるにつきて、此たびかくの如く座をまうけらる、昼御座は日比の如し、御帳の東西のまに三尺の御几帳をてたらる、西の第一の間に四季の御屏風をたつ、昼御座のうえに御劔〈左方〉、御硯筥〈右方〉、をおく、つねの如し、大臣の座の末、参議の座のまへ、をのゝゝ高燈台一本をたつ、きり燈台、文台、円座などは期に臨みて是をかるべし、夜やうゝゝふくる程に諸卿まいり集まる、関白は今朝より直廬に参候せらる、右大臣内大臣けふともに直衣始なり、子刻に関白直廬よりうのぼらる、内大臣以下あひ従ふ、今日宿仕始、やがて保安の例に依りて直廬より直衣始の事あり、前駆布袴、随身褐常の如し、丑刻ばかりに将軍参せらる、其行粧万人めを驚かさずという事なし、為秀、行忠、実綱卿、為邦朝臣ことなる由緒につきて庭上におりたつ、左衛門陣四足より参入、まず帯刀十人左右に行列、
(後略)