宗尊親王下向記

Twitterで友人から質問あり。『宗尊親王鎌倉下向記』にある「びてう」とは何かと云々。該当箇所は次の通り。

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御ともの上らう。
 にしの御方。
 女房三人。御かいさく。
  一人。  のせのはんぐわんだい。
  一人。  さニらうざゑもん。
  一人。  ながゐのさゑもん。
 びてう一人。 えびのさゑもん。
一てうどの。
 女ばう二人。
  一人。  おがさはらのにうどう。
  一人。  すわうの入道。
 びてう一人。 ゆきのはんぐわんだい。内藤ゑもん。
べたうどの。
 女ばう二人。
  一人。  はたのゝいつきのぜんじ。
  一人。  みまさかのにうどう。
 びてう一人。 おほうちのすけ。 あさやたのさゑもん。
一ねうばう一人。みのどの。 またのゝなかづかさ。
一びてう一人。 まつもかの人々。
一とし一人。  志をやのへいざゑもん。
くぎやう。
 さいしやうの中じやう。あきかた。
てんじやう人。
 くわさんのゐんの中じやう。ながさだ。
所たいう。
 ひうがのむさのすけ。ちかいゑ。
 おなじきおとゝはうぐわんだいねいばうのかいしやく。
さぶらひ
 とう志んざゑもん。ねうばうのかいさく。
ぶし。
 六はらのさこんのだいぶ。 をなじきけんそく。
御むかへの人々。
 をはりのかみ。  むさしのかみ。 あしかゞ二郎。

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そこで吾妻を確認す。関係しそうな該当箇所は建長4年4月1日条か。

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『吾妻鏡』建長四年四月一日条。
寅一点、親王自関本宿御出、未一剋、着御固瀬宿、御迎人人参会此所、小時立行列、先女房、<各乗車、下臈為先、>美濃局、別当局、一条局、<大納言通方卿女、>西御方、<尼土御門内大臣通親公女也、布衣諸大夫侍各一人在共、此外女房雑色外無僮僕>
(中略)
次公卿 土御門宰相中将<顕方卿布衣>
次殿上人 花山院中将長雅朝臣<布衣> 
次諸大夫 右馬権助親家 
次医陰道 采女正丹波忠茂 前陰陽少允安倍晴宗 
次自京供奉人人 波多野出雲前司義重 佐佐木加賀守親清<相並> 長井左衛門大夫泰重 左近大夫将監長時<已上狩装束後騎馬済々>(後略)

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これを踏まえて、下向記の方について漢字を当てるとするならば、次のようになろうか。

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御供の上臈。
西の御方。
 女房三人。御介錯。
  一人。
  一人。
  一人。
 仕丁一人。
一条殿。
 女房二人。
  一人。
  一人。
 仕丁一人。
別当殿。
 女房二人。
  一人。
  一人。
 仕丁一人。
一、女房一人。美濃殿。
一、仕丁一人。
一、童子一人。
公卿。
 宰相中将顕方
殿上人。
 花山院中将長雅朝臣
諸大夫
 日向右馬助親家
 同じく大臣判官代女房の介錯

 藤新左衛門。女房の介錯
武士
 六波羅の左近大夫。同じく眷属。
御迎えの人々。
 尾張守。武蔵守。足利二郎。

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女房たちは確定できそうだけど、「びてい」って何だ。

そもそも下向記は、江戸時代の『吾妻鏡集解』にあるが、原本は知らず。編纂所にもない様子。

問題の「びてう」は、江戸の本で「び」とあったとしても中世であれば濁点がないだろうから「ひ」。そして「てう」は「ちょう」か「じょう」だろう。

それで考えると「仕丁」あたりと思いつくがどうか。

コロナ禍がおさまったら、改めてお調べになるとのこと。何か分かったら教えてもらおう。