史料

『和訓栞』中編三十於

おしいた 中古より、書院におしいたの粧といふことあり、室町家の中比に、歌の会式を書るに、彼是押板の本尊には、人丸の絵像と見ゆ、今の床なるべし天正本の太平記に、書院と云々、机板には王羲之が草書等也といへり、今云書院床の事と見え侍る、

『貞丈雑記』十四 家作

一、座鋪の上座に、床と云う物を作る事、上古になき事也、鎌倉の頃以来の事歟、尊氏公、夢窓国師に帰依ありしより、将軍家代々、禅家の国師を師として御受衣ありし也、〈受衣とは、弟子になりて、僧衣を受て著する也〉、然る間禅法世にはやり、出家の風俗武…

『民経記』寛元元年八月卅日条

今夕有文章生登省、式部大輔為長卿申行之、近年絶久無此事歟、継絶興廃之条尤可然、宣旨学生蔵人則俊〈永光男云々〉、春宮蔵人氏光〈宣実朝臣男、予為猶子〉、関白殿御分明範〈文章博士経範朝臣男〉、其外大卿・両文章博士等分可尋、宣旨分先例一人、常事也…

『福翁自伝』緒方の塾風

兎に角に当時緒方の書生は、十中の七、八、目的なしに苦学した者であるが、その目的のなかったのが却って仕合で、江戸の書生よりも能く勉強が出来たのであろう。ソレカラ考えてみると、今日の書生にしても余り学問を勉強すると同時に始終我身の行く先ばかり…

「足利高氏書状」(『越前島津家文書』)

自伯耆国蒙 勅命候之間承候、相催一族可有合力候、恐々謹言、 四月廿七日 高氏(花押) 周防五郎三郎殿 - 軍勢催促状であり、書状であり、御内書。 国史大辞典で上島有先生が御内書の初出とされている文書なり。 御内書についてと、併せて御判御教書関係は論…

「丹波国天田郡前貫首丹波兼定寄進状」○東文書

丹波国天田郡前貫首丹波兼定謹辞 奉寄 松尾御社御領私領田畠等事 合壱処者 在丹波国天田郡菅□□ 四至〈東限高津郷、南限□□□庄、西限土師郷并奄我、北限大山峯〉 副進田畠坪付壱通 右、件田畠、兼定先祖相伝私領也、而寛治三年二月五日 受病悩沈寝席、前後不覚…

『北野社家日記』第七

目安申状(元亀二年) 一、毎月御神楽可令勤仕事、 已上、以丹波国船井庄地頭職得分為料足、可令勤仕之、次同庄所務并毎日勤行奉行事、守慶・禅陽依為重代祈祷之師職、令仰付之上者、令停止別当并政所之綺、永代全知行、為両人之計、一社平均可令宛行之者也…

『北野社家日記』第七

社家引付 一、(文安五年)同四月十三日、女院(敷政門院)崩御、雖然天下触穢無之、 当今故小松院猶猶子之故云々、

『北野社家日記』第七

康正三年丁丑社家条々引付 一、同日、毘沙門堂ニ此間参籠人老僧在之、今日晩景ニ死去云々、以後存知之間、任先規軈曳注連テ川岸ヘ道ヲ着テ穢物ヲ去リ、惣シテ社内ノ事者不穢物ニ定置之処、吉田神主申通者、如何ニ注連ヲ曵ト云トモ、穢物現シテ已後者、可有何…

『松尾大社史料集』60号「治部卿綸旨」

仁倉林民屋事、背先例土民等濫壊渡他所之条、社領之衰微為神用闕怠之基歟、停止自由沙汰、可致専社役者、天気如此、悉之以状、 六月十四日 治部卿(花押) 松尾前神主齋館

『肥前国長嶋荘史料』79号

「橘薩摩一族軍忠状案」○橘中村文書 橘薩摩一族等謹言上、 欲早沮預京都御注進且任 将軍家御下文旨、下賜御施行、全領地恩賞地、 大隅国種嶋地頭職事、 副進、 一通、将軍家御下文、 右、将軍家御下向于鎮西之時、武敏以下凶徒等楯籠菊池山城之間、為誅伐御…

『肥前国長嶋荘史料』88号

「高師直施行状」○橘中村文書 橘薩摩一族等申大隅国種嶋地頭職事、任于建武三年四月七日御下文之旨、可被沙汰付彼輩也、若有子細者、可被注申之状、依仰執達如件、 貞和二年九月廿六日 武蔵守 少輔太郎入道殿

『南部家文書』

「伝足利尊氏御教書」 (花押) 陸奥国探題職所被」仰下也、早速可為喜悦旨、」依 仰執達如件、 武蔵守 建武仁年五月二日 師直(花押) 南部遠江守殿 『南部家文書』で文書名は「伝南部遠江守宛足利尊氏教書」。

『南部家文書』

「北畠顕家御教書」 横溝孫六重頼申、糠部南門内横」溝六郎三郎入道跡中里村事、為伊達」彦五郎辞退地之由、載注文之間、先日」被宛行重頼之条、奉行人等忘却、」謬宛給彦三郎了云々、所申定不便歟、」仍於彦三郎者、被〔充〕行他所、如元所返」給重頼也、早…

『建内記』嘉吉元年二月十二日抄

今年辛酉革命否可被行何事哉事、遠温異域之先規、近訪本朝之故実、其説非一、此論多端者乎、(中略)改元事雖非大化之要道、被任毎度之先蹤歟、(後略)

「口遊」(『続群書類従』第32輯上)

私記年代記略之、 今案、自大宝元年迄今年惣二百七十年、昔大宝以徃有年号、曰大化、白雉、朱鳥、凡従大化至白雉合九載、其後斉明天智二帝、雖治天下専無年号、転更至天武治天歳号朱鳥、其後持統一帝無年号、亦天武御天歳号大宝、従此以来永以不絶也、

『賦引付并徳政方』天文16-17

一 北村源四郎宗満申状 右当国宇治茶苑内森并三筋苑等〈方境見本券〉事、帯買得相伝数通之證文、当知行無紛之処、今度山名殿御苑事、号御算合令混乱彼御苑、只今申上所々苑之儀、為善応庵摘取之条、一向無謂次第也、所詮、買得以来数年当知行上者、任私領證…

「菅原氏女屋敷売券」『唐招提寺史料』214号

売渡 屋敷事、 合壹所者〈東西壹丈八尺、南北五丈なりといへとも、在こうの座、南頬、但今者口壹丈陸尺、奥五丈六尺也〉 右件屋敷者、菅原氏女買得相伝屋敷也、然而、依有要用、相副本文書一通、直銭肆貫「五百」文、限永代所奉売渡朔女実也、若万一違乱煩出…

『花園天皇宸記』正和六年二月三日条

今夜又改元定也、先之有条々事定、右大臣為上卿、親時読之、資名書定文、年号文保之由大略一同、式部大輔〈在輔卿〉、文章博士〈家郄〉、一人、同儒卿一人〈資名〉進勘文、委曲在裏、 (裏書)三日改元、公卿多挙康永・文保、康永者、所引文聊有難、其故者、…

『花園天皇宸記』延慶四年四月廿八日条

今夜改元定也、上卿左大将可参之由雖申、改元定、大将上卿例不快之間、関白令申合仙洞、春宮大夫為上卿、丑刻春宮大夫藤原朝臣・権大納言同朝臣家定・権大納言源朝臣長通・権中納言藤原朝臣実衡・権中納言同朝臣公秀・左兵衛督同朝臣公賢・参議平朝臣惟輔・…

『中院一品記』建武三年二月二十九日条

今日改元定、并縣召除目被始行、以大善大夫経季朝臣為奉行、両事被相催之間申領状、仍申刻許著束帯〈蒔絵細太刀、無文帯、依為警固中、持弓負壷巻纓等如常、随身一人召具之、壷乗桍〉、駕毛車参内〈花山院入道右府第也〉、於中御門東洞院下車、入四足門、公…

『改元部類』不知記 建武元年改元弘四年

文章博士在淳朝臣、在成朝臣連署、 建武 大武 武功 元弘四年正月廿八日、於禁裏内々有沙汰、不依本文之善悪、可有元号之沙汰、以異朝之例、叶当時之義字可計申之由、被仰儒卿〈前民部卿藤範、式部大輔長員、前左大弁三位在登、式部権大輔行氏〉等、在淳又為…

『東寺文書』4-224号「赤澤宗益〈朝経〉書状」

就歳暮之儀、預尊札候、特鷹爪五十袋令拝受候、畏入候、万吉明春早々可申之由、可預御披露候、恐々謹言、 十二月廿八日 宗益(花押) 東寺年預御房 - 鷹爪の用例ってどれくらいあるんだろうか。

『砂厳』6「諸仏閣等雑々」

一、鷹爪 茶ノ名也、鷹ノツメニ若葉相似タリ、

『砂厳』6「時房公任槐所望間事」

任槐事、時房不顧小量、猥及大望、匪恐天道之責、難免人世之嘲乎、(後略)

『京都町触集成』享保8年1372号

町〃ニ而大塔宮あさひ(朝日)よろひ(鎧)ちりやく(知略)の万歳と申絵図用候儀、無用ニ可仕旨被付候、此旨町内銘々江御申聞セ可被成、已上 卯六月十一日 町代山中仁兵衛 - 大塔宮朝日鎧知略ってのは、浄瑠璃の『大塔宮曦鎧』かな。享保8年に大坂にて初演…

『京都町触集成』享保8年1364号

口上 町内ニ好色本売買仕候草紙や共方ニ、売残り之本有之候ハゝ、来ル廿八日迄ニ、東御番所江持参候様ニ被仰付候間、無相違持参可有之候、以上 卯月廿四日 梅村四郎兵衛 廿五日朝廻ル 海老や太郎兵衛、使長太郎

堀部正二『中世日本文学の書誌学的研究』所収「本朝書籍目録考証私記」

ほぼ弘安・正応の頃に撰述されたと思しい本朝書籍目録には、周知の如く当時以前に成立した四百九十三部の典籍を二十篇に分つて著録してあつて、本邦文献に関心を有するものにとつて洵に貴重な資料といはねばならぬ。故和田英松博士の本朝書籍目録考証は、所…

山田孝雄『日本文体の変遷』

公卿の日記なども、本来漢文なるべきものが、されどこれは内々のものなれば、必ずしも厳密に法則を守る必要とせねば、国語を交へかき、或は文字の置様は、漢文の法則に従はずして、勝手に顛倒してかき、或は他の字の音訓を借りて書きたるもの漸く多くなりた…

山田孝雄『日本文体の変遷』

新幹線のともは山田孝雄『日本文体の変遷』の翻刻。碩学の話はホント、面白い。 - この記録書の体は上代の史部の文また古事記の文体の亜流たりと見るをうべし。 (中略) 古事記の文体の如きはその目的は漢字漢文をかりて、かくことを簡易にして、しかもなる…