雑感

詮ずる所、子どもにも学生にも言ってることはあまり変わらず。自身がいま享受している文化やテクノロジーが、他者が同じく享受しているとは限らない。意を通じるためには、自身の認識を相対化しないと、ということ。
だからこそ、他者を慮り話をしないと。
また、話して分かり合えるというのは道徳の教科書の中だけ。分かり合えずとも合意点を見出したり、共感を得たりする努力をすること。
但し、努力は往々にして徒労に終わる。しかし、努力はしないと合意の可能性は生まれない。


こうしたことを使う史料やら教科書やらと表象は別にして教えてることってのは一緒よね。
とはいえ教員もまた自身の相対化に努めていないと、壊れていくけど。