花園天皇宸記

花園天皇宸記の記事が何故、光厳天皇宸記と言われ続けたのか。その小咄の続き。
『季刊 ぐんしょ』再刊7号に、村田正志「花園天皇宸記の全容と形態」がある。村田先生はいうまでもなく史料纂集の花園天皇宸記の校訂者。
花園天皇宸記の解題ともいうべき内容だが、その中に「ながく伏見宮家に保存せられ、明治の世に至った。ところで同宮家に於ては、はやく明治六年所伝の記録文書の整理が行はれ、その結果、(中略)別に元第二十には、光厳天皇宸記として、元弘元年・同二年の二年を納め、都合四十七巻に編成した。今日に至っては、その編成内容は、既に不要と認められる」とある。
更に後半には「次に元第二十所収にかかる元弘元年及び同二年記の二巻は、目録に見えるごとく、もとはこれを光厳院天皇宸記とされてゐたが、それは誤解であり、その筆蹟及び記事内容から、確実に花園天皇宸記の一部に相違ないのである。」と云々。
この伏見宮家襲蔵にかかる花園天皇宸記原本に基づいて、宮内庁で書写されたものが「伏見宮記録文書」。そしてその一冊に誤って編成された「光厳院宸記」があると。
但し、昭和25年に花園天皇宸記は書陵部の所蔵となり、整理され35巻として再表装されたという。ここで元弘元年・同二年の日記は、光厳院宸記ではなく花園院宸記と訂正され今日に至る。かくして、明治6年における伏見宮家の整理のために誤解が広がったという訳ね。
改めて『季刊ぐんしょ』は小篇ながら、押さえておくべき論考が多い。そして恐ろしいことに『季刊ぐんしょ』はCiNiiにも国会図書館サーチにも登録されていない。
なんとかならないものか。