与太話

山川出版社「日本の伝統文化シリーズ」として『茶と花』が刊行されている。茶道については熊倉功夫さんがご執筆と云々。それで友人からお教え頂いたのだが闘茶の記事。
「『後光厳院御記』の正慶元年(1332)の記事に、院の近臣たちが集り「飲茶勝負」としたとある」とあって。んな後光厳は生まれてもいないやん。
それでお教え頂きつつ確認するとそれ以前のさまざまな茶道の本では、闘茶の記録として『光厳院宸記』の元弘2年(1332)6月5日条を取り上げているのね。「資名卿・頼定卿已下少々近臣等祗候、有飲茶勝負、被出懸物、知茶之同異也、実継朝臣・兼什法印各一度勝之、給懸物、」。
ちなみに『国史大辞典』の「闘茶」でも「京都栂尾で生産される最高の茶を本茶と呼び、その他を非茶として、本非の味を飲みわけるゲームが始まった。その記録は『光厳天皇宸記』正慶元年(一三三二)六月五日条の「飲茶勝負」が初見で、廷臣たちが茶の同異を知る遊びであったことがわかる。」とある。執筆は熊倉功夫。
ただ、実はこれ『花園天皇宸記』で、同日条は「資名卿・頼定卿已下少々近臣等祗候、有飲茶勝負、被出懸物、知茶之同異也、実継朝臣・兼什法印各一度勝之、給懸物、其後小一献、公秀卿参、頼定卿包丁、又有勝負、孔子分方、可調進絵一巻之由被定了、」。
茶道史の先行研究を調べていると、林屋辰三郎『図録茶道史』(1964)、肥後和男『茶道周辺』(1947)ありでも『光厳院記』としている。なんで皆さん光厳としているのか不思議だったので調べていると、「伏見宮御記録(元)」(編纂所の架番号は2001-11)の中、17冊 第20に「光厳院御記」とあった。元弘元年10月-12月、元弘2年正月-6月条と云々。
中村直勝『光厳天皇遺芳』の光厳院宸記逸文にもない。はて。と思って捲ってみると総て花園天皇宸記というオチ。ちなみに編纂所の謄写本には「本書、花園院宸記ナラン」とある。史料纂集の花園天皇宸記が刊行されたのが1982から1986年か。
肥後さんや林屋さんたちは謄写や写真帳で調べていたんだろうけど、史料纂集の花園が出たあとでの言及は、確認漏れといいましょうか。
ともあれ何故、花園の記事がかたくなに何十年も光厳の日記と書かれているのか、由縁が分かったから個人的にはよかったけど。何はともあれ、史料を捲ってないと怖いなー
という話。