学道之御記

夫学之為用、豈唯多識文字、博記古事而已哉、以達本性修道義、識禮義辨変通知往鑒來也、而近年学者之弊雖多、大抵在二患、其一者、中古以来強識博聞、為学之本意、未知大中本性之道、而適有好学之儔、希聖人之道者有、雖知古昔以来、帝王之政、変革之風、猶疎達性修情之義、此人則在朝任用之時、能雖練習政化、猶於己行跡、或有違道之者、何况未学之輩、只慕博学之名、以読書之多少、為優劣之分、未曾通一之義理、於政道無要、於行跡有過、又其以風月文章為宗、不知義理之所在、是不足備朝臣之員、只是素飡尸禄之類也、此三者雖有差異、皆是好博学之失也、今所不取也、二者欲明大中之道、盡天性之義、不好博学、不宗風月、只以聖人之道、為己之学、是則所本在王佐之才、所学明徳之道也、既軼近古之学、有君子之風、学之所趣、以此為本、

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これ学の用たる、豈唯多く文字を識り、博く古事を記すのみならんや。本性に達し、道義を修め、礼義を識り変通を弁じ、往を知り來を鑑みる所以なり。しかして近年学者の弊多しと雖も大抵二患に在り。其の一は中古以来、強識博聞を以て学の本意と為し、未だ大中本性の道を知らず。而るに適(たまたま)好学の儔あり、聖人の道を希う者有り、古昔以来、帝王の政、変革の風を知ると雖も猶性に達し、情を修むるの義に踈し。これ人は則ち朝に在りて任用の時、能く政化を練習すと雖も、猶己の行跡に於いて、或は道に違う者あらん。何ぞ况んや、いまだ学ばざるの輩をや。只博学の名を慕い、読書の多少を以て優劣の分と為す、いまだ一の義理を通ぜず、政道に於いて要無く行跡に於いて過ち有り、又其の風月文章を以て宗と為し、義理の在るところを知らず、これ朝臣の員に備はるに足らず、只これ素飡尸禄の類なり。此の三者差異ると雖も皆博学を好むの失なり。今取らざるところなり。二者大中の道と天性の義を明らかにせんと欲せば、博学を好まず風月を宗とせず、ただ聖人の道を以て己の学と為す。これ則ち本とする所王佐の才に在り、学ぶところの明徳の道なり。既に近古の学を軼ぎ、君子の風有り、学の趣くところこれを以て本となす。