『葉黄記』宝治元年六月十日条

晴、参院、摂政・前相国・前内府以下参仕、召官〈淳方〉、外記〈師兼、師光〉、依関東穢気、神事等進退有沙汰、予伝奏也、
穢気事、建保義盛之時、京都無穢気之沙汰、然而承久以後、関東与洛中異他、今度彼合戦之穢、可及洛中之条勿論云々、就之、祇園御霊会、任天永例猶可行之、但所々馬長・本田楽等停止、為去少将井神輿路、猶有行幸、但穢中雖有例、猶不可然、仍賢所猶留御閑院、然而先例多存之間、神輿道陣中之条、不可憚之、去神輿路於他所之条ハ、天福近例不可然、仍猶可如前々云々、臨時祭、穢限以後可被行之、月次社可令同前、大路此定被仰下了、暁頭退出、又帰参、

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宝治合戦の後の記事。承久の乱から、鎌倉と洛中の空間認識というかつながりが出てくるのだよね。
これって、天下触穢の最大の画期な気がする。