『花園天皇宸記』文保元年三月廿八日条裏書

南殿拝座、坤向敷之、仍引直着座〈須仰蔵人直之、而依便宜聊引直、已欲着座時見付之故也〉、屏風立様不似先々、公躬朝臣仰蔵人令直之、成輔奉行也、父卿随分嗜記録、而成輔頗疎略歟、当時毎人如此、職事皆不知公事

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平成輔の花園院宸記での初出記事。気の毒な記されっぷり。
本郷さんの論考で成輔は後醍醐の伝奏とされているけど、文書の発給は1通のみ(『鎌遺』31237号)。前日の記録で書いた通り、量仁の元服の奉行人を勤めている。また、『鎌遺』に収録されていない『賀茂別雷神社文書』28号の成輔奉書は、摂関家の意を受けたものではないかと。
そう考えると、成輔って、果たしてどこまで後醍醐の忠実な近臣だったのか。
『太平記』第一の五にある日野中納言資朝、蔵人右少弁俊基、四条中納言隆資、尹大納言師賢、平宰相成輔あたりの討幕運動の近臣とされてはいるけど、最終的に元弘の変では後醍醐に供奉していないし。
中井さんは後醍醐の訴訟制を研究されているし、成輔について何か言及されているんかしら。