雑感

レヴィ・ストロースの『構造・神話・労働』は民族学だけではなく、日本文化を考える者にとって示唆的な本である。ストロースは、日本の労働と、西洋の労働との根本的な差を次のように述べる。

私が今までに見てわかったのは、日本の伝統的技術のいくらかのものが、そのある過程について聖なる感情というか、ほとんど宗教的な感情を保持していることです。ご一緒に観た杜氏もそうですし、刀鍛冶もそうでした。西欧の人間にとってこれはまったく驚きの種であり、示唆に富んでいます。労働の考え方がまったく違うのです。ユダヤ・キリスト教的視点からみると、労働とは人間が神との接触を失ったために額に汗して自らのパンを稼がねばならぬという一種の「罰」なのです。ところが日本では逆に、労働を通じて神との接触が成り立ち、維持され、保ちつづけられるのですね。

現代社会における「商品としての労働」、ユダヤ・キリスト教的伝統の「罰としての労働」に対する「使命としての労働」である。
一つのコミュニティに参加し続けるために労働をするという、集団と労働との関係性が日本にはあるといえよう。それが戦後の経済発展において、徐々に廃れ、現代社会の「商品としての労働」が幅を効かせるようになった。
このような「働く」ことに対する認識の変化が、人間関係にも大きく影響を及ぼしている。
パソコン通信から、インターネットの普及へと続き、世界は瞬く間に身近になった。数百㎞離れた友人と電話はおろか、ディスプレイ越しで顔を合わせて会話が出来る。またTwitterやFacebookの参加率の向上によって、名の知られた人物はおろか、まったく名の知られていない市井の人であっても、その人が「いま」何をしているのか、「この時」何をしていたかが、たちどころに知ることが可能となった。
ホームページからブログ、そしてTwitterやFacebookなどのSNSと、ネットでのコミュニケーションの方法はどんどん手軽なものとなり、人と人が繋がっていく社会が生まれている。

しかし、そうした状況下のなかで改めて問いたい。果たしてそれが本当のつながりなのかと。
例えば、社会人として会社の懇親会(要は飲み会)に出る人が少なくなってきているという。俗に言う「飲みにケーション」が廃れている。
また、近年は非正規雇用の労働者の割合が増えてきている。所謂派遣社員である。私も大学院生の頃、派遣社員を経験したことがある。そこで先輩から聞いた話だが、正規と派遣の大きな差とは、(給料の多寡や保証の厚さなどは別にして)常日頃、昼食を一人で食べることという。正規は正規同士の仲間で食べに行くが、派遣は個別に食べに行くことが多い。確かに自身が派遣だった頃、一人で食べていた記憶がある。
そして割合の多くなった非正規雇用の人々は、一人で食事をし、その最中に携帯を見てSNSに、何を食べたか、午前中にどんなことがあったかを書き込みをする。それが果たして、人のつながりと言えるのか。何も積極的に徒党を組むことを推奨しようとしているのではない。先の見えない時代において、横の紐帯はとても重要である。特に東日本大震災が起きた今日において「繋がり」を再考する機会は増えている。一例としては、東北において祭や行事が再興している事例があげられよう。過疎化などから継承者が激減し、廃れつつあった祭や行事が、震災によって再評価される。それこそ無形文化財の強さであり、繋がりの再構築といえよう。こうした繋がりは地域によって様々な形態を取る。その様々な形態をとるリアルな繋がりと平面で画一的なSNSの繋がりが同じ役割を果たせるとはとうてい考えられない。
いま、日本史・民俗学・国文学・神道学など、日本文化を研究する様々な分野の研究者が目指すのは、単にインターネットの有効性に惑わされることなく、個別具体例の積み重ねと、ストロースが挙げたような日本文化の根元にあるものは何かを提示することではなかろうか。それが解明されることによって、これまで構築され崩壊しつつあるといわれる日本の現代社会に対する提言が出来るのではないかと思う。