覚恕

『国史大辞典』より。

1521-74
戦国時代の天台宗の僧。寺伝によれば大永元年(1521)十二月十八日誕生。父は後奈良天皇、母は小槻雅久女の伊予局。大永五年(1525)延暦寺の曼殊院門跡にて得度。天文六年(1537)慈運のあとをうけて同門跡を相承。同年北野社別当職を兼ねた。弘治三年(1557)准三宮の宣下をうけ、金蓮院准后とよばれた。永禄五年(1562)には尊朝法親王の得度に戒和上を勤め、同十年の同法親王の仏事を輔けた。元亀元年(1570)三月(一説に四月)第百六十六代天台座主に補せらる。翌二年九月、織田信長のために延暦寺全焼の厄に遭った。天正二年(1574、一説に同二十年)正月三日没。五十四歳。『真如堂供養弥陀表白』『金曼表白』などの著、および『天台座主記』『消息書生故実抄』などの書写本の類が曼殊院に伝存している。墓は京都市左京区一乗寺の曼殊院裏山の曼殊院宮墓地にある。

信長の叡山焼き討ちの際の座主ながら、あまり情報がない。
とりあえず後奈良天皇実録の皇子の部分をコピー。あと、華頂要略は部屋に欲しいなぁ。
しかし、覚恕が信玄を頼って甲斐へ落ちたっていう話のhistorical sourceってなんだ?