顧みられない地震史研究の成果

とほほな記事。
asahi.com(朝日新聞社):津波被害の文献知りながら「記録なし」と説明 関西電力 - 関西ニュース一般
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK201105270022.html

兼見とフロイス日本史で書いてあるのにねぇ。と思って、調べてみる。
関電が典拠としていた『日本被害地地震総覧』(宇佐美龍夫 東京大学出版会 1975年)を見ると

078 15876 I18(天正13 XI 29)亥の下 刻機内・東海・東山・北陸諸道 (中略)
飛騨白川谷の保木脇で大山崩れ、帰雲山城埋没し、城主内ヶ島氏理以下多数(300余人という)圧死.山崩れのため白川が堰止められ20日間水が流れなかった.白川谷全体で倒家埋没300余戸、.越中木船城(高岡市の南西)崩れ、城主前田秀継以下多数圧死.大垣で潰家多く、出火、城中残らず焼失、尾張の長嶋で被害大.岡崎城破損.近江長浜で城主山内一豊の幼女をはじめ数十人圧死.京都では東寺講・灌頂院破損.三十三間堂の仏像600体倒れる.阿波にも地割れを生じたという.余震は翌年まで続く.『家忠日記』によると三河で翌2月7日まで
1月15日を除き連日余震.その後、2月11・12・18日、3月9・10・30日も地震.ただし毎日の地震回数は不明.京都でも1月17〜18日ころまで連日余震.その後回数は減ったが余震は1年余続いたもよう.

とあり、『兼見卿記』の「廿九日地震ニ壬生之堂壊之、所々在所ユリ壊数多死云々、丹後・若州・越州浦辺波ヲ打上在所悉押流、人死事不知数云々、江州・勢州以外人死云々、自坂本俄関白御上洛、大津通也、風寒以外也、御迎之事、俄之間諸家不罷出、然間予聞其不罷出也、」や『フロイス日本史』は参照されていない。
『日本被害地地震総覧』に「とりあげた地震」は、『増訂大日本地震史料』・『日本地震史料』などから網羅したものとのこと。確かに『日本地震史料』を見てみると、『兼見』や『フロイス日本史』は載っていない。
しかし、編纂所も関わって1980年に刊行された『新収日本地震史料』では、この天正13年11月29日の地震記事の冒頭に掲げられた史料は『フロイス日本史』5 第60章(第2部77章)で、

グレゴリオ(・デ・セスペデス)師が小豆島で行なった布教、および五畿内地方で生じた異常な地震について
(前略)
 地震がもたらした被害は甚大で、破壊された町村は数知れず、(その惨状は)信じ難いばかりであった。ここでは、それらの目撃者が後日、司祭たちに語った主なことだけを述べることにする。
 近江の国には、当初、関白殿が(織田)信長に仕えていた頃に居住していた長浜という城がある地に、人家千戸を(数える)町がある。(そこでは)地震が起り、大地が割れ、家屋の半ばと多数の人が呑みこまれてしまい、残りの半分の家屋は、その同じ瞬間に炎上し灰燼に帰した。その火が天から(来たもの)か、人間業によるものか知る者はいない。
 都では、若干の家屋と壬生の堂と称せられる大きい社が倒れた。我らの修道院は高い(建物で)あったので危険に曝され、キリシタンたちは倒壊しはしないかと大いに危惧したが、頑丈にできていたので、(我らの)主(デウス)は保持されることを望み給うた。とはいえ、それは他の家屋同様に(上下、左右の)震動を免れ得なかった。
 若狭の国には海に沿って、やはり長浜と称する別の大きい町があった。そこには多数の人々が出入りし、(盛んに)商売が行なわれていた。人々の大いなる恐怖と驚愕のうちにその地が数日間揺れ動いた後、海が荒れ立ち、高い山にも似た大波が、遠くから恐るべき唸りを発しながら猛烈な勢いで押し寄せてその町に襲いかかり、ほとんど痕跡を留めないまでに破壊してしまった。(高)潮が引き返す時には、大量の家屋と男女の人々を連れ去り、その地は塩水の泡だらけとなって、いっさいのものが海に呑みこまれてしまった。

と記載されている。*1
しかし、1987年に刊行された『新編日本被害地地震総覧』には、若狭の津波記事は記載されていない。1996年刊行の増補改訂版は確認してないけど、せっかく『新収日本地震史料』を編纂したんだったら、1987年の段階で載せとこうよ。

*1:「[古代・中世]地震・噴火史料データベース」にも、もちろん『兼見』や『フロイス日本史』の記事が記載されている。このデータベースのポリシーはこちら