広橋家

 平凡社の『日本史大事典』より。

 藤原氏北家内麻呂の流れ、日野家の支流。日野兼光の五男権中納言頼資(1183-1236)を始祖とする。しかし頼資は四辻または勘解由小路と称し、その子経宣に至り広橋を号した。家格は名家。始祖以下四代は中納言を極官としたが、兼仲の孫兼綱が贈左大臣、兼宣、綱光、守光、国光が贈内大臣、また国光の父兼秀と子の兼勝が内大臣に、江戸時代の兼賢、兼(勝)胤、伊光らは准大臣に列せられている。なお兼綱は後円融天皇の外祖父に当たり、兼宣などの子女が後花園天皇以下三代の乳母になっている。始祖頼資以下代々要職にあたって朝務を務めたが、ことに兼勝が江戸時代最初の武家伝奏に補されて公武間の調停に努めたのをはじめ、兼胤は宝暦事件で宮中における神書の進講を排し、伊光は尊号一件で勅旨の貫徹をはかり、光成は外交勅許や和宮降嫁などで、いずれも武家伝奏として公武間の調停斡旋に尽力した。
(中略)
 広橋家は文筆の家として有名で、始祖以下代々日記を残しているが、なかんずく、鎌倉時代の経光の「民経記」、兼仲の「勘仲記」や室町時代の「兼宣公記」「綱光公記」「兼顕卿記」、さらに江戸時代の兼胤の「兼胤卿記」や「八槐記」、伊光の「勁槐記」などは、各時代の朝廷の動静や公武間の消息をうかがうのに不可欠な史料である。なお江戸時代における同家の家禄は850石である。
(米田雄介)