信州

naozari2008-11-24

 二日目。
 まずは別所の北向観音で現世利益を祈願してから、上田の刀屋へ。
 毎年、細くなっているような。。。。
 初めて食べた時のモコモコ感が懐かしいですなぁ。池波さんのお陰で観光客も多く大変かとは思うけど、モコモコ感が無くなるのは悲しい限り。

 蕎麦を食したあとは、小諸にある信濃三十三観音霊場の二十九番札所の布引観音へ参詣。崖の上。鎌倉時代に建立されたというけれど、木材はどこから運搬するのか。地頭や守護が発願するにしろ、下から持ち込んだ方が、より功徳があると思うのだけど。
 ↓は平凡社の日本歴史地名大系の長野県「釈尊寺」の項より。
 これを見る限り、鎌倉時代の宮殿は誰が造ったかは不明なのか。

[現]小諸市大久保
 天台宗延暦寺末、布引山曝巌院釈尊寺、本尊釈迦如来。俗に布引観音とよばれている。
 御牧原北端の断崖にあり、境内一帯は奇岩多く、千仞の絶壁をなす。そこに長大な巨柱を建てて支えた観音堂があり、中腹には仁王門その他の堂宇がある。頂上からは千曲川、浅間山、小県郡・北佐久郡一帯が望める。
 寺伝によれば、神亀元年(七二四)の創建で、天平二〇年(七四八)岩窟に伽藍を造営、永正元年(一五〇四)滋野遠江守昌頼父子が懸崖に建てた観音堂の礎柱八本を改修、更に弘治四年(一五五八)同佐衛門佐信雅が拝殿などを造営したという。天文一七年(一五四八)武田晴信が布引城を攻めた際、本堂及び六房が灰燼となり、現在の本堂は寛延二年(一七四九)小諸城主牧野氏が松三〇〇本を寄進して再建したものである(川辺村誌)。
 観音堂内にある桁行一間、梁間一間、高さ五尺三寸五分、入母屋造・板葺の宮殿(重要文化財)は、岩屋内に安置されていたため兵火を免れ、正嘉二年(一二五八)に建立されたまま現在に至ったもので、建築年代が明確で鎌倉時代の様式をよく示し、特に従来絵巻物によってのみ存在を知られていた梅鉢懸魚がついていて、美術史上重要な建築物である。また境内中腹の浅い岩窟にある白山社殿(昭和三四年県指定重要文化財)は、一間社・春日造・柿葺(こけらぶき)で、建立は室町時代中期を下らず、後補の跡はみえない。

 帰りは141号線を通って南下。途中、清里付近で吹雪に遭うも無事帰宅。