『鎌遺』25531

 和泉国日根庄内井原・日根野村等荒野、実行上人開発事、
右、子細者、為妨彼開発、焼払新百姓之住宅、殺害其身事、
(源)兼定同心于(中原)盛治結構之由、蒙御不審候之条、殊以驚歎存候、
為上裁御計事、為私争可違背御沙汰候乎、尤可足賢察候歟、
所詮、以前モ不成妨、無違辞企候、向後又以不可有其儀、此
趣若偽申候者、
上梵天・帝釈・四大天王・日月五星、殊八幡・賀茂・春日・
熊野・日吉・北野等神罰冥罰、兼定身可罷蒙候、仍所立申如
件、
 正和四年六月四日             兼定
(※北野社の宝印を翻して記されている)

文永三年(1266)十二月二十四日に東大寺で記された起請文に牛玉宝印が使われ、現在はそれが牛玉宝印使用の起請文初見とされている。
鎌倉時代を通じて、宝印が使われた起請文を集めてみると、ほぼ東大寺文書だった。
ということは、宝印を使う起請文というのは、東大寺(というより南都)が発祥なのか。

ちなみに東大寺以外の数少ない例の一つが、この「源兼定起請文」。北野社は参籠起請に指定されている場所だから、参籠出来なくて本文書を提出したのか。