歴代残闕日記叙

 これの皇国の風俗として、おほやけとなくわたくしとなく、高きもみじかきもよろづのわざをば見るにつけ聞につけつゝもにしるしとゞむるためしは、寛平延喜のはやくの頃より、嘉永安永の今の世にいたるまでも、いとまある大宮人はさらなり、國をしづめあだを護れるものゝふの弓とる手しても、神につかへ佛にぬかづき、ぬさをとり念珠くる手しても、あるひは田にたちあるひは市にたちつゝ、なりはひのいとまなきてしても、かきつゞくるなんならはしなりける。されば世界にうつしもて傳ふる、家々の日次の記どもを其あらぬかぎりつたへましかば、うつはり高くけた廣き文庫も、猶ところせきまでになんあるべき。しかれども其ふみどもの中には、大かたはちりほひつろひて、たゞおもかげのみ残れるはた多かり。されば其ひとひら二ひらといへども、いにしへの跡をとめむとするには、猶いひしらずたよりある業なり。こゝにわがつかうまつる大殿のおまへは、いにしへしのび給ふみこゝろ僻ふかくて、かゝるふみどもをも普くつたへさせ給ふあまりに、かのかたはしばかり残れらんものをも、いかでひとつゞゝにとりすへてんとて、このあづまなる遠のみかどの、いにしへ学びのかうだむその預り、塙のあるじにかたらひたまひて、この家にはさるふみどもさへすら、かぞへ尽すまじうひめもたるるに、まづ其かぎりをこひ寫し給ひ、さらぬをもこれかれあなつりたまひて、年をつみ月をかさねて、うるにしたがひうつしとらせたまへりしまゝに、いつしかとなく所せくつどひて、およそふみの数はみつもゝちあまりよそくさ、巻のかずはもゝはたあまりむまきとぞなりぬる。しかはれど猶これらのほかにも、いまだ其かぎりつくすべくもあらねば、今は大かたにとどめてむとて、歴代残闕日記と名づけたまひて、かうしもひとつゞゝに綴かさねさせ給ひぬ。猶この後にもいでらむをば拾遺どもしてつどへたまはんとなるべし。たゞしかく名づけてはあれども、あながちざんけちのみなるには限らず。あるひはほんより抜いてたるものあり、或はをりヽヽの儀式次第を時にとりてかけるもまじれり。かくてかううるはしくてらし給へるにつきては、目ろくはたなくはあらじを、たよりよからんさまにとくかきて奉れど、殊さらに仰せさせ給へば、あしたの雪の寒きをもいとはず、ゆふべのあらしのあらまじきをもきらはず、みじかき日に長き夜をつぎ、古きあたらしきついてをとゝのへ書きつらねて奉るついでに、さばかりやむごとなきみこゝろしらひのはしをも、いさゝかほのめかしたてまつるにぞありける。
  安政五年十二月
                             湏坂殿人 藤原春村