井上鋭夫『山の民・川の民』

 ちくま学芸文庫で復刊。平凡社選書で持っているものの、文庫は重宝するので購入。
 これで『板碑とその時代』が出ればいいのにねぇ。。

 ちなみに井上先生の本の巻頭に石井進先生が解説を書かれている。
 冒頭の一文だけでも、中世史を志す者としては様々な事を考えさせられる。

 二 中世は生きている
 一
 世界のどの国の歴史でも、中世史が一番楽しめるような気がする。ここには騎士道物語や牧場の風景、さては聖なる寺院など、ピラミッドやトロヤの遺跡に劣らないりっぱな素材が豊富にある。日本の場合は、古代史のように、頭を駆使する必要はなく、近世・近代史のように、無数の史料を処理する体力もいらない。おまけに外国語が無用で、中世史研究者は、有名人の名筆に接して目の保養をし、遺跡調査に名を借りて散歩にでかけることができる。歴史を勉強するなら日本の中世史を、というのは、けっして我田引水ではないつもりである。
 だが世の中はそれほど甘くはない。こんな気持ちでいるわたしは、ときたま「気の遠くなるような中世史」という冷や水を浴びせられることがある。古文書が読みづらいのであろうか。それとも、考証の手続きがめんどうに思うのであろうか。(中略)中世史はやがて四面楚歌のうちに葬り去られるかも知れない。
 ありがたいはずの中世史が、ありがたくないのは、教育や研究の面ばかりだけではない。昨今の歴史ブームに乗ったのか、多くの市町村史が編集されているが、ここでは中世を無視されているものが少なくない。(中略)祖国の将来を、現在の歴史教育の成果?と関係させて考えるとき、世の行く末をつくづく憂慮するのは、わたしばかりではないと確信している。