雑感

「いうまでもない」のレベルが昔は階層化されいたりした。
大学でもそれを前提にして話をしたり学ばせていたことが、何事もわかりやすさ、いいかえれば、可視化することはよいことだと、皆がいう。
可視化されることはもちろん重要だが、段階が小刻みになればなるほど、一定の到達点まで時間がかかる。必然的に以前まで求められてきた前提に立てず卒論を迎える。
実体験をして何を気づくか。気づくには経験と想像力が必要だが、近頃は上記の階段が長い分、欠如している場合が多く、真面目ではあるものの、教わるだけの姿勢でのびしろがなきなった感がある。
また、気になるのは、いうまでもないことの階層が老若関わらずなくなりつつあることだ。
30までに、40までに、60までには身につけていたであろう、教養がない。
昔はあったというのは幻想かもしれないが、少なくともわかりづらいことを遮二無二に思案して理解することが求められていた。いまはそれがない。わかりやすさに流れることは、低きに流れることと同じである。