集合知

西垣先生の『集合知』は通勤途中に読了。
知の有り方について、根本的に問う内容。
冒頭から、「専門知に対する根深い不信」とか自ら調べて考える必要性があることを指摘し、また、「アカデミズムの質的な凋落」の原因を

少なくとも二つあげられるだろう。第一は過度の専門分化である。以前は、学問分野をへだてる壁がそれほど高くなかった。応用物理に進んでも物理学のほかに応用数学や制御工学を学べたし、理学部物理学科の教官のなかにもコンピュータの専門家がいた。創造的な研究をささえるのは広い基礎知識だというのは常識で、狭いタコツボに閉じこもる研究者はむしろ軽んじられたものである。
今では、状況はまったく逆だ。針先のように細分化された専門領域にどっぷり浸かっていないかぎり、専門研究者として認められない。昔はせいぜい二、三の専門誌しかなかった一分野が、今では何十をこえる多分野に枝分かれし、それぞれ定期的に何種類もの専門文献を公表している。それらに常に目を通し、自分の研究との関連に目配りしていないと、進展の速さについていけない。隣接分野の勉強をしたり、のんびり教養を高めたりしている暇などないのである。
ともかく、専門研究者の絶対数がやたらにふえた。競争を勝ち抜くには、少なくとも年に数偏の(できれば英文の)論文を発表しなくてはならない。多くの査読者は、重箱の隅をつつくような揚げ足取りのイチャモンをつけてくる。査読を通過するには、既存の権威あるパラダイムにそって入念にデータを集め、隙のない立論をするのが近道だ。研究者の日常は、このための「労働」でびっしり塗りつぶされていく。こうして、大して面白くない、お行儀のよい論文が大量生産されることとなる。
要するに、今の専門家の大部分は、こういう人々なのである。あるいは、そういう知的労働者たちの「元締め」として、予算やポストの配分で忙しい人々なのだ。
第二は、学問研究への無制限な市場原理の導入である。産官学の過剰な癒着といってもよいかもしれない。国立大学の独立法人化と科学研究費の重点配分以来、この傾向はにわかに高まった。要するに、大学の専門研究者も、短期的なカネもうけに精を出さなくてはならなくなったわけである。

と云々。金額の多寡はあるにしろ、理系も文系も問題では変わらない。
そして、「世の中の大半の問題には、はっきりした正解など存在しない。あるとしても、正解かどうかよくわからない」問題に対して、集合知は役立つのではないかという。
「部分的な情報を寄せ集めると、誤りの効果がランダム選択によって打ち消され、集合知が成立する」という議論から「集団誤差=平均個人誤差−分散値」という数学的なモデルを出し、これを「集合知定理」と呼ぶ。集合知定理が示すのは、集団における個々人の推測の誤差は多様性らよって相殺され、結果的に集団としては正解に近い推測が出来値という。
うーん。こうした議論を考えるといよいよもってウェキペディアが集合知なのかが、わからなくなってきた。また、上記の議論はあくまでも性善説に依っているんじゃなかろうか。
例えば、悪意ある情報の操作を排除するためには、それを凌駕する事例が必要になる訳で、それを考えるとウェキの更新回数なんて、あまりに少なすぎる。
歴史事象は史料に依って立ち、その史料の残存数には限りがあり、少ない史料を厳密に且つ批判して読む「専門知」が前提として必須。そう考えるとウェキの歴史事象の記述はレベルの高低はあるにしろ、そうした人間の「専門知」の結合体になる(無論、素人の記述もあるけど)。だとすればも、それは別に集合知なんかではなく、紙媒体とは異なって更新可能な、レフリーのいない専門知に依る百科事典でしかたり得ないんじゃないのかな。
という理解に立つと、いよいよもって、ウェキペディアは当てにならず。また、ソースの確認もしなければ無いけなくなるので、レポートには使わない方が良いですよと学生に言うしかないか。