『明治東京逸聞史』明治二十年

国粋主義 〈奠都三十年(太陽別冊)〉
欧化政策の行過ぎから、国粋保存が主張せられ、ついでそれが国粋発揮といい代えられた。その明治二十年代のことを、岸上質軒が、次のように書いている。
「・・物窮まれば、すなはち変ず。西洋心酔の時代極盛に達したる結果、国粋保存の声は、天の一方よりして起れり。人々多く洋饌に飽きたり。たちまち日本料理の配膳に接して、何人か躊躇してあるべき。新年の門頭松竹再び栄えぬれば、アーチは理髪店、洋食店の招牌のみに面影を留め、賀客は多く黒紋附の羽織袴となりて、新年宴会の席上に、また洋装の歌妓を見ず。国学、漢学再び起こりて、古書の翻刻物、古典の講義録なんど、幾多雑誌屋の店頭に並び、書生得意に欧米を罵倒すれば、外人始めて日本の独立国なるに心附くこそをかしけれ。
 かくて破壊時代に取残されたる神社仏閣は、古物保存の名の下に、ありがたくも雀羅を払ふ資金を得て、その古物朽物も、また海外に流出し去りたる外は、宝物取調委員の手に、撫摩せらるゝの光栄を得たり。こゝに於てか二十八年には、平安奠都千百年祭に際会して、大極殿の建設あり。その余興として時代行列をさへ出だしぬ。・・・」