『看聞日記』永享十年十一月十六日条

(前略)、抑明盛法橋申、姉小路町西洞院之間、伊勢外宮御座、今日遷宮云々、神主捧勧進帳諸方勧進、関白、室町殿以下公家、武家勧進帳加判形、是ニも可有御奉加之由、明盛執申、雖有斟酌伊勢御事之間、加判形馬一疋奉加了、高松女院此在所ニ有、草創云々、(後略)

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平安期の高松殿の鎮守社としてあった高松明神のこと。
高松明神は、応仁の乱で焼失した後、永禄8年*1に神明寺宝性院(高松神明宮宝性院)として神宮寺となり、明治8年*2に高松神明神社となり現在に続くと云々。
なお、これらの洛中洛外の神明社については、萩原龍夫『中世祭祀組織の研究』に収められている「京都の神明社」や、瀬田勝哉『洛中洛外の群像 失われた中世京都へ』に収められている「伊勢の神をめぐる病と信仰」などの研究がある。

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