通勤読書

夏目漱石の『漱石文明論集』を読了。
「断片」明治三十四年四月頃

人は日本を目して未練なき国民といぬ。数百年来の風俗習俗を朝飯前に打破して毫も遺憾と思はざるはなるほど未練なき国民なるべし。去れども善き意味にて未練なきか悪しき意味において未練なきかは疑問に属す。西洋人の日本を賞讃するは半ば己れに模傚し己れに師事するがためなり。
その支那人を軽蔑するは己れを尊敬せざるがためなり。彼らの称讃中にはわが国民の未練なき点をも含むならん。去れどもこれを名誉と思ふは誤なり。深思熟慮の末去らねばならぬと覚悟して翻然として過去の醜穢を去る、これよき意味においての未練なきなり。目前の目新しき景物に眩せられ一時の好奇心に駆られて百年の習慣を去る、これ悪しき意味においての未練なきなり。沈毅の決断は悔る事なかるべく発作的の移動はまた後戻する事あるべし。日本人は一時の発作にて凡ての風俗を棄てたる後また棄てたるものをひろひ集めつつあるなり。俳句は棄てられてまた興りぬ。茶の湯は斥けられてまた興りぬ。謠は廃せられてまた興りぬ。棄てたる時に悪漢あつて拾ひ去らざりしは諸君のために甚だ賀すべき事なり。しかしながら諸君の未練なきを賀する気にはなれぬなり。
日本人は創造力に欠ける国民なり。維新前の日本人はひたすら支那を模傚して喜びたり。維新後の日本人はまた専一に西洋を模擬せんとするなり。憐れなる日本人は専一に西洋人を模擬せんとして経済の点において便利の点においてまた発作後に起る過去を慕ふの念において遂に悉く西洋化する能はざるを知りぬ。過去の日本人は唐を模し宋を擬し元明清を模し悉して一方に倭漢混化の形迹を留めぬ。現在の日本人の悉く西洋化する能はざるがためやむをえず日欧両者の衝突を避けんがためその衝突を和げんがため進んでこれを渾融せんがため苦慮しつつあるなり。日本服に帽子は先づ調和せられたりといはん。洋服に足駄は遂に不調法といはざるべからず。美術に文学に道徳に工商業に東西の分子入り乱れて合せんとし合せんとして合する能はざるの有様なり。日本の書は右より下に始まり西洋の書は左より横に読むなり。両者は如何にして合併すべきか。日本の仮名はv,d,th等の音を示すを得ず。諸君は如何にして両者の調和をはかるべきか。支那人は黄金時代を堯舜の世にありと思うーへり。世の澆季□□□□覚れるが故なり。洋人は未来において黄金時代の来るべきを信□□□□は進歩しつつあると自覚すればなり。日本人はいづれの□□□□時代を置くべきか。