東寺百合文書数

『鎌遺』にある「伏見上皇院宣」(正安二年正月十五日付け)と「六波羅施行状」(嘉元元年九月十八日付)の出典は「東寺百合文書数」とある。
百合文書の「数」ってなんじゃ?ということで検索。
『国史大辞典』の「東寺文書」(上島有先生)では

(上略)「東寺百合文書」「東寺文書」というのは史料編纂所の影写本に従った分類名である。「東寺百合文書」というのは前田綱紀寄進の百の桐箱に納められた文書である。「百」というものの現在は九十四箱で、綱紀が実際百箱寄進したものか、九十四箱を百箱と称したものか、現在ではそれを確かめることはできない。それぞれの箱には片仮名「イ・ロ・ハ…」、平仮名「い・ろ・は…」の符号が付されている。大正十四年(一九二五)からは『大日本古文書』東寺文書としてその刊行が始まり、昭和六十二年現在八冊で「い函」から「わ函」の途中まで刊行されている。これに対して「東寺文書」というのは、史料編纂所の影写本作成当時、百合の箱に納められていなかった東寺襲蔵の文書を一括した名称で、それはさまざまな形をしている。まず(一)御宸翰と称するグループがある。これは後宇多法皇宸筆荘園敷地施入状ほか十点の巻子あるいは掛幅の文書である。ほとんどが後宇多法皇・後醍醐天皇などの宸筆であるが、建武三年(一三三六)九月二十三日後醍醐天皇東寺塔供養願文のように宸筆でないものもある。次に(二)六芸之部がある。これは「礼・楽・射・御・書・数」の分類名称をもった九十一巻の文書で、江戸時代に美術品としてまた東寺の寺史を知るうえで特に貴重と思われるものを「百合文書」から選び出したものである。(下略)

と云々。
編纂所の影写本を見てみると、「3071.62-1」が「東寺文書」、「3071.62-2」が「東寺百合文書」とある。
上記の2通は、この「東寺文書」の内、「六芸之部」の数にある。
上島先生の解説を読む限り、「六芸之部」は広義の百合文書には含まれるけど、狭義には別と考えるべきだろう。百合文書の函でいうと数はないわけだし。
鎌遺編纂の際に何で百合文書数となったのかは不明。
「東寺文書」については、上島先生の「東寺文書の伝来と現状」(『資料館紀要』1号)を参照。結句、「六芸之部」は東寺にあるので「山城東寺文書六芸之部数」とすべきか。