二条雅孝

弘安四年〜文和二年(1281-1353)。藤原基長の子で、伯父にあたる飛鳥井雅有の猶子となり、飛鳥井家の嫡流を継いだ人。
応長二年(1312)にして従三位(非参議)となる。当時30歳。正和五年(1316)に参議となり、文保元年(1317)三月廿七日には出雲権守を兼ねる。
後醍醐天皇の即位の直前に参議を辞退*1。兼官であった出雲権守は同年七月七日に止められる。
その後は前参議に長らく留まるも、室町幕府成立後の康永四年(1345)に「武家推挙」により権中納言となり四ヶ月で辞退。
嘉暦四年(1329)正月廿四日に行われた前将軍久明親王百ヶ日仏事の布施取人交名*2にも出てくることから、その際に後伏見と花園の意も受けて関東に下向したようだ*3
しかし、雅孝がバリバリの持明院統派というと聊か疑問。花園の日記を見る限り、6度しか出てこない*4。登場数だけで判断するのはマズいので内容を確認すると、最初の2度は単なる除目の記事。続く文保元年三月十八日条では、小除目の執筆を辞退して花園に厳しく弾指されている。
後の元応以降の三箇所でも、行事に参加している旨を記されているだけであったり、為藤の死亡記事の際に載っている程度で、特筆すべきことがない。
少なくとも文保の記事を読む限り、花園は雅孝を評価していないんだろうなぁ。

*1:即位は文保二年二月廿六日。辞退は二月十一日。

*2:『鎌遺』30497号文書

*3:ちなみに嘉暦四年で従二位。47歳。

*4:応長二年三月十五日条・正和元年十月十二日条・文保元年二月十八日条・元応元年五月廿日条・元亨三年五月廿一日条・元亨四年七月廿六日条のみ