『お湯殿の上の日記』

元亀二年九月十二日条
のふなかのわりて、ひゑの山、さかもとみなみなのこらすはうくわする、そのほか山王、八王寺なとまてやく。ちか比ことのはもなき事ともにて、天下のためせいしなる事、ふてにもつくしかた事なり。(後略)

元亀二年九月十八日条
たけのうちとのさす御したい申さるる、御事こなたより申さるゝ。

元亀三年閏正月四日条
御くわいあり。御人数しんわうの御かた、たけのうち殿、やふ大納言、まてのこう大納言、山しなの大納言、まてのこうち中納言、四つし中納言、左衛門のかみ、ちふきやう、なか山少将なり。御わかんなり。

元亀三年二月四日条
こよひはかうしんにて、しんわうの御かた、おかとの、たけのうちとの、女中、おとこたちめして、にはかに御かうあり。そこそこしたる御けんふつともなり。(後略)

天正元年十二月廿二日条
(前略)たけのうちとの御わつらひにつきて、たけ田おほせられて御みやくにまいる。御くすりしんさくのよし申。色々おほせられて、御くすりまいる。

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毎度のことながら、お湯殿は読んでいると発狂しそうになる。
これを捲る限り、竹内殿(曼殊院門跡覚恕)は亡くなるまで在京しているように思われ。
なのに、なしてwikiでは甲斐に落ち延びたとあるのか。謎。