史学史

福田さんの論文を捜した時に、見つけたのが、笠松先生の「一通の文書の「歴史」(『神奈川県史研究19号』)。

それは同じ醍醐寺文書第25函の中から、次のような文書が発見されたからである。
報国寺殿御自筆御書一通并
錦小路殿御書一通、同記録一通
以上三通、応永廿八年九月廿四日
自御所御預、御使林阿弥
         万済(花押)
    ○改行モトノマゝ
 満済はかの有名な座主准后満済である(彼は文書の署名に、「満」と「万」の二字を用いた、両者をどのように使いわけるのか、私にはいま確定的なことはいえないが、公的な文書に「万」を用いないことだけはいえるようである)。

これを読んで思い出したのが、『中世人との対話』(東京大学出版会 1997年)の「回想の「醍醐寺文書」」。

醍醐寺文書之七
 この冊にも、またまた苦い思い出がある。応永二三年(一四一六)九月二九日、座主満済が病む師隆源に充てた書状(一四二七号)の署名(端裏とともに二ヵ所)を「万済」としてしまったのがそれである。彼が書状等の私的文書の自署に「●済」と書くことの多いのに気づいた私は、この「●」を万のくずしと思い込んでしまい、彼は満と万を場合によって使いわけているのだと、あろうことか得意気に人にも話す始末だった。考えてみると、「マン」という音通から自署を「万済」と書くはずもなく、間もなく●が万ではなく、満の草書体の最も略された型であると気づいて、臍を噬む思いをしたが、あとの祭であった。書状などの署名で、二字のうち上の字を、ほとんどあるかなしかに略してしまうことの多いのは常識であり、●などはまだ程度の軽い方であったにもかかわらず。
※●は満の草書体。外字フォント。

『中世人との対話』は学部の時に読んでいたが、神奈川県史研究の方は読んでいなかった。
今回、初めて読んで、「あぁこの話が」と得心。きっと笠松先生からすれば、後学の者がこんなことを書くのも不快かもしれない。でも史学史として、ささやかながら嬉しかった。