『茨城県史』3中世編

第3章 南北朝・室町時代の常陸・北下総 第4節 室町幕府と鎌倉府 237頁より

北下総の下河辺荘も、至徳三年(元中三、一三八六)五月に将軍義満から氏満が料所として与えられたと伝えられている(「頼印大僧正行状絵詞」『続群書類従』九輯上)。この荘園は、鎌倉末期、皇室を本家、武蔵金沢の称名寺を領家とし、地頭金沢氏が支配しており、鎌倉幕府倒壊後、称名寺は後醍醐天皇勅願寺であったので寺領は安堵されたが、地頭職は金沢氏滅亡後、足利氏の手に移ったらしい。その荘域は必ずしも明らかでないが、現古河市域を北端とし、東は総和町、五霞村、西は埼玉県の春日部市、北葛飾郡、南埼玉郡におよび、野田市を南端とする利根川周辺とみられている。小山義政の乱後、この荘の帰属をめぐって幕府と鎌倉府が対立したが、天下の大乱になることをおそれた義堂周信のとりなしで両者が和解し、義満は氏満に下河辺荘を料所として与えることを認めた。氏満がこの荘を熱望したのは、本来この荘園が関東の料所であったからで、それを義政が押領したことも義政の乱の一因ではないか、というのである(稲垣泰彦「古河公方と下野」『日本中世の社会と民衆』)