下総国下河辺荘

 『講座 日本荘園史』より。

 葛飾郡。荘域は旧利根川を中心に北は茨城県古河市、南は千葉県野田市、東は茨城県猿島郡、西は埼玉県春日部市・北葛飾郡幸手町等を境とする地域であった。久安二年(1146)八月十日平常胤寄進状(「櫟木文書」)に「下河辺境」とあるのが初見である。『吾妻鏡』治承四年(1180)五月十日条に「下河辺庄司行平」とみえ、同文治四年(1188)六月四日条に八条院領とあり、鎌倉時代初期には成立していた。当荘は八条院から藤原良輔に伝領された(『門葉記』)。しかし再度皇室領となり、永嘉門院に譲られた(「竹内文平氏所蔵文書」)。この荘の支配権はそののち北条氏に移った。文永十二年(1275)四月二十七日の金沢実時譲状(「市島謙吉氏所蔵文書」)に当荘が見え、金沢氏の所領であったことが知れる。さらにこの荘は称名寺に寄進され、本所が皇室、称名寺を領家とし、金沢氏が地頭として支配していた。鎌倉幕府の滅亡後称名寺の所領もいったん没収されたが、建武政権によって安堵され、分割された地頭職の多くは足利氏に移ったと推定されている。さらに南北朝末期に鎌倉府御料所になったとみられ、鎌倉府が滅亡の後も古河公方の御料所として続いた(「喜連川文書」)。