「慶清請文」(『久我家文書』60号文書)

(端裏書)「慶清請文 〈五ヶ年請申事、康永元 七 十九〉
 請申 因幡国石田本庄領家御方伍箇年所務事
右、為大恩院修理料足、以直銭陸拾貫文、自当年壬午歳至于戌年伍箇年所請申也、名々注文〈在別紙、〉下給畢、於不熟損亡年者、被下検使、年貢之定足於令結解、以後年可令立用之、有限年紀已後、寄事〈於〉左右更不可致知行、次名々御注文外、御公文・田所名并京給御節季者已下者、曾以不可相綺之、此等条々御契状并御教書分明之上、於令違乱者、雖為年紀内、不及被返下、右直銭、不日可被召返所務職者也、其時更不可子細、仍請文如件、
 康永元年七月十九日     慶清(花押)

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 謎の久我家文書。
 南北朝遺文の中国・四国編では1188号。
 岡野さんも論文では言及されていない文書。

 ほぼ同時代の慶清さんは、東大寺文書の「三条前中納言家雑掌慶清重申状」と萩藩閥閲録の「足利直義下知状」に現われる。
 久我家文書では所務請負をしているところからみて、慶清さんは方々の雑掌をして食べてる輩ということか。
 それで悩ましいのは石田庄の伝領の流れ。鎌遺25642では前天台座主親源(北畠雅家の子)から弟子の太政僧都公厳(洞院公守の子)に譲られている。しかし遺誡に背いた場合は按察大納言(北畠親房)の子息に譲るとある。これは久我家領っていうんかね。