「兼倶謀計記」

皇大神宮神主
 注進、可早被経次第上奏、被破却吉田之今神明、於兼倶卿者、一段預御糺明、弥専天下太平、国家安全御祈祷間事、
右、大神宮御神体、飛御坐吉田之由、就兼倶卿注進、則迎禁裏有叡覧、剰其儀為勿論之由、被成下綸旨勅書等云々、為事実者、言語道断次第也、抑天照大神、自高天原於下界可有御鎮座地視給、下賜五十鈴之霊宝、則相留当宮今之五十鈴河上、如是神代自天上定御坐、当宮清浄之霊地也、何為飛御坐下七社吉田矣、神不享非礼者也、併彼兼倶卿為虚言、謾奉軽神慮、叡慮之条、以外子細也、然預許容之条、神慮難測者也、所詮不日、被召返彼綸旨勅書等者、止神宮愁訴、弥可奉抽御祈祷之忠節者也、仍注進言上如件、以解、
  延徳元年十二月日         大内人正六位上荒木田神主定治上
禰宜従四位下荒木田神主守朝
禰宜正五位下荒木田神主守則
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内題は「神敵吉田兼倶謀計記」(謄写2012-68)
兼倶は、唯一神道を創唱した御仁で、応仁文明の乱の後、神道復興に尽力したとか。吉田家は、中央の神祇官人として室町期から有名になりますわな。
公卿補任を開と、吉田家としては至徳三年に兼煕が登場。兼煕は良基から諮問を受けたりする人ですな。以下引用。

吉田兼煕(『日本古代・中世人名辞典』吉川弘文館より)
 南北朝・室町時代初期の神祇官人(神祇大副)、吉田社祠官、神道家。貞和四年(正平三、一三四八)卜部兼豊の男として生まれる。永和元年(天授元、一三七五)卜部宿禰を改め朝臣の姓を賜る。家号は邸宅の所在する地名をとって室町を称してきたが、足利義満が同四年花御所(室町第)に移ると、室町の号をとどめ、累代祠官として奉仕してきた吉田社の地名を家号にはじめて用いた。至徳三年(元中三、一三八六)従三位に叙せられ、父祖代々の位階を越えて、はじめて公卿に列す。のち正三位に昇階。これ以前、神祇大副となり、永徳三年(弘和三、一三八三)後円融上皇より「日本紀自他家不可注進事」(『吉田日次記』)との仰せを蒙り、二条良基・一条経嗣らに『日本書紀』の秘説伝授を行い、また神祇故実家として公家・武家の顧問に預かり、吉田流の地位を不動のものとし、平野流を完全に凌駕するに至った。特に義満の信任はあつく、南北朝合体の交渉に直接あたり、明徳三年(元中九、一三九二)両朝合体を成功に導いた。神道の元老と称され、卜部氏の地位をたかめた功績は大きく、吉田卜部氏中興の祖とされた。応永九年(一四〇二)五月三日、五十五歳にて没す。
参考文献『大日本史料』七-五、応永九年五月三日条
                               (岡田荘司)

しかし、吉田家が台頭するのは、家を引き上げようとする政治的思惑か、それとも個人の資質か。北朝の人材枯渇状況が義満期には解消されていたならば、単なる個人的資質ということになるのかしら。