明治の国学

 東京大学史料編纂所に「起請文集」と題する影写本(架番号3071.08-11)がある。奧書には「明治十九年五月三重県度会郡長浦田長民ヨリ井上図書頭ヘ送ル所ノ文書ヲ模写ス」とある。井上図書頭は、伊藤博文の側近としても有名な井上毅。度会郡長の浦田長民とは、神宮少宮司も勤めた神道家である。
 そして文書集には以下の19点の文書が収められている。(古文書総目録DBで検索すると20点。とりあえず総目録DBにしたがって文書名を列挙する)
 依知泰公成人起請・依知泰真大媚起請・道合他連署起請文・与一男起請文・賢眩他連署起請文・玄海他連署起請文・快忠起請文・実舜起請文・法印覚聖他連署起請文・嶽使行房他五名連署起請文・隆深起請文・浄専起請文・徳地起請文・又六他連署起請文・五郎左衛門他連署起請文・小網公人等起請文・愛染院賢照筆涅槃会疏文・荒木田某起請文・某田地譲状・伊勢太神宮司庁宣
 時代は、最も古くて天平十一(739)年、新しいものでは万治三(1660)年のものであるが、多くは十四世紀のものである。
 これらが、どのような意図を持って集められたものなのかは現在では不明であり、原本がいまどこにあるのかも分からない。国書総目録でも史料編纂所の影写本のみが記されている。
 また、多くは東大寺文書ではないかとご教授を得たので、東大寺文書で同名を捜してみると快忠や実舜が見つかった。しかし花押とは違うような気がする。でも明らかなのは、この文書集の内、十二点の料紙に二月堂の宝印が用いられている(もしくは貼られている)ことであり、宝印を料紙とした起請文としては未翻刻のものといえるだろう。
 現存する牛玉を料紙とした起請文の多くは東大寺文書であり、また本文書集の起請文も二月堂宝印が用いられていることを考えれば、東大寺文書が明治期に寺外へ流失した際、浦田長民が入手したものと考えるのが確かに妥当である。
 そうなると改めて、浦田長民の文書を集めた意味を考えてみたくなる。 
 まぁ、とりあえず浦田長民の研究を捜して読んでみることにしよう。