『建内記』正長元年十月廿三日条

 千疋自知久遠院被借与之、女孺并内侍所供神物少々致沙汰、向明年讃州年貢也、

 サイコロ時房会で読んだ永享元年正月四日条の宿題が少し解けた。
 が、知久遠院って何だべ。
 と思って探してみたら。

 正長元年十月十六日条
 知久遠院入来、自作州上洛云々、薬王寺猶逗留、在作州薬師寺云々、秘計物事有催促之状、讃州年貢且到来之由、飯尾内々示知久遠院、可持来是請取云々、仍請取書遣知久遠院、収納無相違者明日可持来我請取云々、依借用返弁也、為公役又可預秘計仍由約了、
 金貸しか?と思ったけど、永享二年二月十六日には「欲参詣泉涌寺知久遠院御塔頭之処」とあるから泉涌寺塔頭か。
 そのあと、同年十二月十一日条にも、讃州の年貢についての関連史料がある。ということは、守護請ならぬ、寺請を泉涌寺はしていたということか?であれば、泉涌寺が室町期の朝廷経済を支えていたといえるし。うーん。公方御倉ならぬ、禁裏御倉とかがあれば面白いなぁ。