『建内記』正長元年六月廿五日

 自 室町殿有召、馳参之処、御対面、蒙仰云、武衛弟<号二郎>左衛門佐事、以問注所仰職事<頭中将(四条)隆夏朝臣>之処、公家ニ有見任之由申之、再三問答之処、按察大納言息也、彼卿支申之由頭中将返答云々、按察可支申事不思寄歟、又達 叡聞者定不可有子細之処、職事未練之間如此及子細歟、只今関白来臨之間尋申処、公家雖有見任、武家任官無拘之由承之、誠武家輩済々焉也、定如然歟、所詮左衛門佐事、時房令 奏聞可申請口 宣之由蒙仰之、○(隆夏朝臣未練者也、可被改易之物ヲト有御独言、)先々問注所付示職事之時、職事 奏聞、則 宣下者也、而隆夏朝臣無故実、如此申入歟由会尺申了、次参 院、付四辻宰相中将 奏聞、此事未申入之間、只今初所聞食也、早可被 宣下、隆夏朝臣不経 奏聞、為私申子細不可然之由、堅可切諫之由仰下之、此事承懸之題目也、(後略)

 四条隆夏が無能なのはともかく。
 弁官と中将の貫首が行う仕事の差ってあるのかしら。