教養という名の権威基層、ひいては鎌倉期の国家認識

 (注意)通勤中に携帯で書いたのでだいぶ粗削り。
 中世は武士という新興勢力によって、政権の一部が担われた時代である。また、武士=ヤクザ説が主張される昨今、それらの言説には、ある種の現代風潮と類似性が見いだせないか。つまり市場の原理主義と同様の文化としての教養主義排他の思考である。
 武士=ヤクザ説は、武士の教養の無さ、また、武力を以て最終決着を納めるという認識論である。
 それとは異なり、貴族や文士は、例え強制力を有していようとも、漢籍などに裏付けされた教養を判断基準として理非を決することを是とした。
 実際に政治に漢籍の素養がどれだけの価値を有するか、現代社会を生きる者にとっては理解しがたいかも知れない。しかし理非を断ずる行為には、確固たる思想・信念・哲学によって裏付けられた、権威による強制力がなければならない。それは最終的に鎌倉幕府も武力のみの権力だけではなく、徳治を理想とした方向性からも証明されよう。
 つまりは、教養を役に立たないものとして、金が判断基準になる現代風潮とヤクザ説はリンクするのである。
 天皇制が何故、前近代を通じて権威たり得たか。様々な見解や理由があり一概に説明付けられるものではない。しかし天皇家ひいては公家社会が、教養としての文化力を裏付けにできる権威を有し続けていたことが一つの理由にはなるだろう。
 漢籍の受容や、中華型支配体制の思想的バックボーンは知識人階層を常に産み出さなければ継続することはできない。その為にこそ、公家社会は漢学を修めた。そうした権威に、権力のみ持ち得た幕府は「乗っかり」開闢した。未成熟な政権は、源家の潰えた後、九条家、親王家と戴き、将軍家の家格上昇をするしか手だてはなかった。そして親王家が将軍になった時、院‐天皇‐将軍というピラミッド型のヒエラルキーが完成した。
 このように権威の正統性を求めた幕府は朝廷と形式的には一体として国家を形成したといえる。鎌倉期の国家像とはどのようなものかを考える時、現代的な思考で類推するのも一つの方法である。しかし、現代の国家観とは西洋の近代国家観であり、中華思想が語る「国家」ではない。また、蒙古襲来によって「国家」が為政者以外にも認識されたとしても、あくまで、為政者階層と認識を一にするとはいえない。そう考えた時、鎌倉期の為政者(公家・武家)の考えうる国家とは、公家によって、また、禅僧が輸入した漢籍によって、形成された一つの中華思想的なものである。しかし、先に述べたように為政者以外とは認識は国家観を一にしていない。何故ならば為政者以外は文化を享受していないからである。つまり鎌倉期の国家観とは、為政者層とその他の人々とは認識が乖離する、幻想の権門体制なのである。